「だめから始める」ということ

 午後、勇希の三ヶ月検診。検診で留守の間、Mさんがパンを焼いてくださり、わざわざ届けてくださったのだけれども、留守をしていたので、Mさんの自宅まで取りに伺う。その後、ユキティさんとママさんが遊びにこられ、お茶をしている途中で、東京から鬱と戦っている男性から電話。


 いろいろ重なるときは重なるものです。


 電話の彼は、去年の夏ころ、心に生傷ができるような出来事をきっかけに、電話で話を聴くようになり、当初はひたすら傾聴しました。そして、傾聴を繰り返すうちに、彼自身が自分の問題を自分で整理できるようになってきました。


 自分のことを責めてしまう。自分はだめだと思ってしまう。そういう自分の心の動きに自分自身で気がつくようになり、そこから一歩ひいて、客観的に自分を観察し「ああ、今、自分は、自分のことを責めている状態だな」とわかるようになりました。


 ここまでは、傾聴とか一般のカウンセリングの領域だと思います。


 でも、自分のことを責めてしまう、とわかって、それなら、責めないようにすればいいという、簡単な話ではありません。それができない自分に気がつくという、次のステップに進みました。


 幸い、彼は神様の愛を信じる信仰を求めています。ですから、次の段階として、父なる神様に、心の中のどろどろしたものでもなんでも、打ち明ける祈りをするようになり、一歩前進しました。神様に傾聴していただくようになった、ということです。


 状態が安定し、外出もできるようになるなかで、さらに今年になってから、彼にチャレンジしているのは、「自分はだめだ」ということを、認めていいんじゃない、という信仰のチャレンジです。


 聖書は、神様の前には、すべての人は罪びとだというわけです。つまり、はじめから「だめ」なんです。みんな「だめ」なのに、お互い、どんぐりの背比べをしては、「だめ」じゃないと思いたがっている。


 でも、聖書がいっているのは、神様は、罪びとを愛し、救うということです。言い換えれば、神様は、「だめ」な人を愛し、救うのです。



キリストの言葉です。

「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(マルコによる福音書2章17節)


言い換えれば、「自分はだめじゃない」と、一生懸命自尊心を守ろうとして頑張っている「自称、正しい人」は、神の愛は必要ないかもしれません。しかし、やがては、自尊心を守り切れずに、ぼろぼろになるかもしれない。


 一方、「自分はだめだなぁ、罪人だなぁ」と、自分の真実の姿を知る人には、神の愛の必要性がわかるでしょう。そして、神様は「自分はだめだなぁ」と悲しみを覚える人を、愛し、招いてくださっているというのです。これが神の恵みです。


 そして、この神の恵み、神の愛を受け止めて、こんな自分でも、神に愛されていると、この神を見上げていく。それが信仰です。


 「自分はだめじゃない」と自分で頑張って思い込むのでも、だれかが「あなたはだめじゃないよ」と言ってくれることに依存して、必死に自尊心をまもるのでもありません。



 「あなたって、だめなのね」といわれても、「そのとおり、自分ってだめなんだー」と平然と言える自分。「でも、神に愛されているから、感謝」という自分へと、神の言葉を信じる信仰を通して、変えられていく、ということです。


 神の言葉を信じる信仰に生き始めるとき、人の言葉や態度に振り回されなくなっていく心の強さと、しなやかさを体験していきます。


 これは、頭の中の理屈ではなく、信じて体験することで学んでいくしかありません。


 彼はそういう、信仰のチャレンジと訓練に取り組み始めています。もちろん、失敗したり、落ち込むこともあります。しかし、それらすべてのことが、神の愛を思い起こし、祈るきっかけとなることを、学び、体験し初めています。


 信仰を通して働いてくださる、主の力に期待します。