価値観の転換

今日は、日曜日の説教の準備。明日は朝から幼稚園のバザー、午後から希望ホールの市民音楽祭で、アンサンブルと吹奏楽の演奏。そんなこんなで、明日は一日忙しくなりそう。


 今日の夜は、明日のバザーの準備を少し手伝い、途中抜け出して、来週の宮田四郎さんのコンサートの時のゴスペルの練習に参加。本当は、明日のアンサンブルの演奏の練習もあったのですが、さすがに三つのかけもちは出来ず、そちらは欠席。明日は2時からぶっつけ本番です。しかも、幼稚園のバザーを途中で抜け出しての参加、というわけで、あちこちにご迷惑をかけまして、ごめんなさい。アー忙しい。


 ところで、人間というものは、不思議なもので、忙しいのは大変だといいながら、忙しいと妙に安心したり、暇だと不安になったりするもの。

 「アー忙しい、忙しい」と、いいながら結構嬉しそうだったり。忙しい自分は価値ある存在なのだと、知らず知らずのうちにそういう物差し(価値観)で自分を計っているのかもしれません。忙しいという字は、心が亡びると書くのにね・・・


 忙しかったり、自分が動ける、働ける、そういうことに安心の根拠をおく物差しは、もろい。なぜなら、定年になったり、病気になったり、年老いて身体が動かなくなったり、失業したり、そんなときが人間にはいつかくるからです。そんなとき、そういう物差ししか持っていなかったら、大変です。


 実際、老人ホームでお年寄りのお話を聞くと、かつてはばりばりの企業マンだった人が、年老いて何も出来なくなった自分を、その物差しで測っては、今の自分には生きる価値がないと苦しんでいます。その方の存在に価値がないのではないのです。その方の物差しに問題があるのです。


 物差し(価値観)が変わるとき、生きる希望が湧いてきます。

 水野源三という詩人は、小学校4年の夏、集団赤痢に感染し、体の自由はおろか、話す機能さえ奪われましたが、12歳の頃、彼は、聖書を読むようになり、考え方が変えられ、自分が生きている意味を見いだし、詩を書き始めるのです。


 身体の自由がきかず、話すことも出来ない源三さんは、お母さんが50音表のあ行から、指を横にすべらせ、言いたい言葉のところで、まばたきをすることで、一字一字言葉を探して、詩を書きました。


 彼のまばたきを通して、何百という詩が生まれました。彼がまなたきの詩人とよばれる由来はここにあります。


 六畳間から見えるほんの一握りの空間。それが源三さんが数十年の間生きた世界です。こんな人生、価値無いですか? 世界中を飛び回るビジネスマンのほうが、価値ある人生を生きていますか?


 水野さんはもう天に召されましたが、彼の信仰によって生まれた詩は、いまでも、多くの人びとに深い感動と慰めを与えています。彼は、神を信じて、いつまでも残る、価値ある人生を生きた人。私はそう思います。


水野さんの有名な詩をご紹介しましょう。

<生きる>
 神さまの大きな御手の中で
 かたつむりは、かたつむらしく歩む
 蛍草は蛍草らしく咲き
 雨蛙は雨蛙らしく鳴き
 神様の大きな御手の中で
 私は 私らしく 生きる