今日の御言葉から

shuichifujii2007-10-07


 Mさんはご用事。Nさんご夫妻と礼拝。
聖書はローマの信徒への手紙8章31節以下でした。


33節には「だれが神に選ばれた者たちを訴えるのでしょう。人を義としてくださるのは、神なのです」


という言葉があります。神様が、キリストの十字架のゆえに、私たちの罪を赦し、義としてくださった。ゆえに、自分で自分を裁かなくていいし、責めることもない。

 イエスさまの弟子達は、イエスさまが十字架につけられる直前、イエスさまを捨てて、みんな逃げ出してしまいました。そして、逃げているあいだに、イエスさまは十字架につけられて死んでしまう。弟子たちにとって、これは、もう取り返しのつかない失敗。大きな罪でありました。


 弟子達は、逃げ隠れながら、きっと自分たちを責めていたことでしょう。愛する人を裏切ってしまった心の痛み。しかも、その方は、死んでしまった。もう取り返しがつかないそんな状況の中、自分たち罪を、責めて、責めて、彼らは苦しんでいたに違いありません。


 第二次世界大戦の時、あるユダヤ人が、ドイツ人の将校に呼び出され、病院に行きました。この将校は負傷していて、もう死が目の前でした。彼は、死ぬ前に、ユダヤ人に告白をしたいと、彼を呼んだのです。


 このドイツ人の将校は、自分のしてきたことを語りました。ある時は、300人のユダヤ人を捕らえ、三階建ての家のなかに入れ、ガソリンを浴びせ、手榴弾を放ち、銃口をそろえて、逃げようとするものを片っ端から撃ったといいました。


「家から聞こえてくる叫び声は恐ろしかった」。負傷兵はその瞬間を思い起こす。
「小さな子どもを抱きかかえた男を見た。服には火がついていた。傍らには女が立っていた。まぎれもなくその子の母親だった。男は空いた手で子どもの目を覆うと、通りに身を投げた。何秒か後、その母親が続いた。そして他の窓からも燃えるからだが落ちた。私たちは撃った・・・。おお、神様」


 すべてを告白した、ドイツ人負傷兵は、最後にユダヤ人の彼にこういいました。
「私はあなたにひどいことを語った。死を待つ長い夜、何度も何度もそのことをユダヤ人に話したい、そして赦しを請いたいと切望してきた。・・・・わたしの願いがあなたには大変に過ぎることを知っている。しかし、あなたの答えをもらわずには、平安に死ぬことができないのだ」ドイツ人将校はそう言います。


 この告白を聞いたユダヤ人の彼は、揺れる心に自問自答しながら、しばらくして、ついに心を決め、一言も言わずに、その部屋を出たのだそうであります。


 人は罪の赦しを求めます。しかし、人間には、それを与えることは出来ないのです。


 イエスさまは、十字架の上で悲惨な死を遂げました。それは、三年間も一緒に連れ添った、弟子たちに裏切られ、見捨てられたあげくの、悲惨な死です。


 そして、裏切って逃げてしまった弟子たちは、どれだけ自分自身を責め、苦しんでいたことか。


 しかし、十字架に死に、3日後に復活したキリストは、弟子たちの前に現われたと聖書は語ります。復活のキリストの弟子達への第一声は、「平安があるように」でありました。弟子たちを責める言葉ではありませんでした・・・


 イエス様は、弟子達の取り返しのつかない罪を、自ら背負って十字架についた。そして弟子達が、もう一度立ちあがることができるようにと、主は、復活なさった。ゆえに、主は、ご自分を裏切った弟子達の罪を、ひと言も責めないのです。ただ「あなたがたに平安があるように」と言われるのです。この主の愛にふれた弟子達は、この後、決定的に変わっていきます。


 人は、罪あるものを、責めます。自分を責め、他人を責める。責めることで人を変えようとするのが人間です。しかし、キリストは、罪を責めるのではなく、その罪を自らが背負って十字架に死に、そして復活して、「自分を責めなくていいんだよ、平安があるように」といって下さる。この神にしかできない罪の赦し。この赦しの愛こそが、私たちを根底から変える力を持つ愛。神の愛なのです。