人は何のために生きるのか

shuichifujii2007-10-01


 稲盛和夫氏(京セラ(株)名誉会長)の講演会を聴きに行きました。テーマは「人はなんのために生きるのか」という興味深いものでした。会場の希望ホールは満席。経営者などが多かったようです。


 稲盛氏の結論は、 「人生の目的は魂を磨くこと」 、ということでした。死ねば肉体はこの世に置く。しかし魂は永遠。だからこの世で魂を磨いて、やがて旅立っていくことが人生の目的。
また、「因果応報の法則」とか、魂を磨くためにと、釈迦の教え「六波羅蜜」などを紹介なさり、ちょっとした仏教入門のような内容でした。


 でも時折「神様が与えてくださった試練を感謝しています」ということをいわれたり、宇宙を良い方向に導いている「力」とか「この宇宙は愛に包まれている」とか、仏教というよりも、創造主の存在を思わせるような発言があり、稲盛氏も心の奥では、創造主なる神を求めておられるのではないかと、思いました。


 いずれにしろ、酒田に住む沢山の人が「人はなんのために生きるのか」ということを知りたくて、講演会に集まっていたのには、感慨深いものがあります。人生に成功した人なら、きっと人生の目的がわかるに違いないと、集まってこられたのでしょう。




 しかし、稲盛さんが語られた、この人生は、魂を磨くためにある、という考えは、本当に生きる目的たり得るのでしょうか?


 私たちが何かを磨くというとき、必ずその磨いたものを見てもらう対象が存在します。たとえば、職人が「業を磨く」のは、その業を評価する人がいるからです。「美を極める」のも美を評価する対象があってのことです。


 さて、「魂を磨く」というときには、その魂とは、いったい誰に対して、磨くのでしょうか。誰に評価してもらうために、認められるために、自分の魂を磨くのでしょう? いや、そのような人格的な対象などなく、ただ自分の魂を磨けばいい、ということでは、単なる自己満足のような気がします。


 それとも、この宇宙は「因果応報の法則」があって、善いことをすれば善いことが返ってきて、悪いことをすれば悪いことが返ってくるのだから、魂を善いものに磨くのだ・・・ということでしょうか。それなら、その善いこととか悪いことというのは、いったい誰が決めるのでしょう。善や悪の基準である神が存在しないのなら、この宇宙に絶対的な善や悪はなく、全ては相対的なものになります。つまり、あなたには善でもわたしには善ではないということです。もし、神がなく、絶対的な善がないのなら、魂を磨くということになんの意味があるのでしょうか。


 無神論者のバートランド・ラッセルさえ、こういったそうです。


「神がおられると仮定しない限り、人生の目的を問うことには何の意味も無い」



 では、人格的な神を信じる人にとって、人生の目的はどのようなものになるでしょう。

 創造主なる神がおられるなら、神に造られた人間は、神に対して責任ある存在です。造ってくださった創造主の愛に応えて生きる存在です。

 ところが人は、神の前の責任など感じることなく、無責任に生きています。神への責任を無視して、一生懸命自分の魂を磨いていても自己満足でしかないのです。神への無責任。それが聖書のいう罪です。


 人間の社会でも無責任は裁かれるように、神様に対する無責任も裁かれなければなりません。そういう意味では、人間の魂は永遠ではありません。魂を造られた神には、魂を滅ぼす権威もあります。


「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」新約聖書 マタイによる福音書10章28節)



 しかし、キリストが十字架の上でその裁きを代わりに受けてくださり、滅びから救ってくださった。それだけではなく、死から復活したキリストが、聖霊として、共に生き、人が神に対して責任ある人間として生きることが出来るように助けて下さるようになった。これが、福音です。なんて感謝なことでしょう。


 かくして、キリストを通して、父なる神の愛を知った人々の、人生の目的は、以下のごとくシンプルなものとなるわけです。



「だから、あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すため にしなさい。」新約聖書 1コリント10章31節)
 
 「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。」 (新約聖書 マタイによる福音書6章33節)

ハレルヤ