再びマルタとマリア

 今日は、午後Mさん御夫妻と礼拝。説教は8日と同じマルタとマリアのお話し。礼拝後の雑談のなかで、
「マルタはきっと、接待のあと、イエス様のお話しをちゃんと聴いたと思うよ」とご主人
マリアさんは、気が利かないんじゃなくて、イエス様のお話しを聴くおもてなしをしておられたのよね。ふたりで立ち働いていたらイエス様に失礼だものね」と奥さま。

 それぞれに、聖書のみことばを味わっておられて、うれしいなーと思いました。感謝です。


聖書
「一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。
彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。
マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」
主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。
しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」





「必要なことはただ一つ」


 さて、今日は2人の姉妹のところに、イエスさまと弟子たち一行が宿をとったというお話でした。マルタとマリアという2人の姉妹が登場します。マルタの方がお姉さんで、マリアは妹だったようですけれども、この2人が、イエスさまをお迎えしたとき、まったく違う反応をした。それがとても印象深いお話だと思います。

 お姉さんのマルタの方は、イエスさまご一行をもてなさなくてはと、大忙し。せわしなく立ち働いていたわけです。一方、妹のマリアは何をしていたかといえば、イエスさまの足もとに座りこんで、イエスのお話に聞き入っていたというわけです。

 旅人をもてなすということは、これは、当時の常識です。昔の旅というのは、今とは比べものにならないくらい危険ですし、あちこちにホテルがあったりレストランがあったりコンビニがあったりしませんし、パレスチナというのは、暑くて乾燥していて、水がなくなったら命取り。旅というのは、そんな危険と隣り合わせだったわけですね。ですから、お互いに旅人に対しては、思いやってもてなすというのが、常識だったわけです。

 ですから、忙しく接待をしているお姉さんのマルタは、自分は当然のことをしているのに、自分のことを手伝おうとしない、妹のマリアはなにをやっているの、というわけです。

 40節でマルタはイエスさまに言うわけです。
「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」

 イエスさまの目の前でお話を聞いている、この妹を何とかして下さい。手伝わせてください。そもそも、イエスさまもイエスさまですよ。妹に向ってお話しばかりして、と言わんばかりに、イエスさまに抗議するわけです。

 そんなマルタにイエスさまは、

41節
「主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。
しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」

 そういいました。
 マルタは、多くのことに思い悩んでいる。イエス様をもてなそうとやっきになって、かえって、心が乱れている。せっかく良いことをしているのに、この時のマルタの心は、乱れていた。イエスさまは、そのことを問題にしています。

 人のために良いことをする。隣人のためにつくす。それはとても意味あることですけれども、ところが、せっかく良いことをしていながら、いや、良いことをしているがゆえに、なぜか、心が乱れてしまうということがありませんでしょうか。

 ボランティアをしている人は、いつも心が清々しくいられるかといえば、そうもいかない。人のことを助けながら、心の中で、いらいらしていたり、むかむかしているということもある。たとえば、自分がしたことを、ちっとも感謝されなければ、「むか」っとくるでしょうし、評価されなければ、いらいらするかもしれません。

 相手のためにしているつもりが、実は、自分が報われたいと思うなら、心も乱れるわけです。

 このお姉さんのマルタが心乱れるのも、妹のマリアばかりいい思いして、自分は一生懸命働いているのに、という思いもあったのかもしれません。もてなしているはずの、イエス様にさえ怒りをあらわにしながら。

 もてなしというのは、相手のために、相手中心にするものですけれども、マルタは、相手中心ではなく、自分中心であることに、まだ気が付いていません。もてなしているはずの相手にさえ、文句を言う自分の滑稽さに、まだ気が付いていない。

 そんなマルタにイエスさまはいわれるのです。「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。」

 イエスさまは、マルタに、あなたは多くのことに思い悩んでいるけれども、本当に必要なことはただ一つ。それは、わたしの前に座って、神様の言葉に耳を傾けることだよといわれます。自分の言葉ではなく、神様の言葉に聴くということであります。

 さて、妹のマリアはどうなのか。マリアは、自分勝手で気が利かない人だから、じっと座っていたのでしょうか。いや、マリアも、イエスさまをもてなしたいという気持ちがはあったはずです。ただ、マリアは、なにが自分にとって、そして、イエスさまにとって、一番大切なことなのか、すべき事なのかが分かっていた。

 何が必要なことなのか。それは、イエスさまの足下に座って、イエスさまの言葉を聞く。イエスさまの言葉に耳を傾ける。実は、これが必要なこと。

 最近、わたしは、傾聴塾というボランティアをしています。老人施設などを訪問して、お話を聞かせて頂くボランティアです。そして、人というものは、いかに、自分の話を聞いてほしいものなのか、ということを痛感しています。話しを聞いてくれる人がいなくて、孤独のなか苦しんでいる人が沢山いるのですね。ところが、話しを聞いてもらうためには、どうしても、相手がいなければならないわけです。聞く人がいて、初めて、話す人は、話しを聞いてもらえる。つまり、聴く人がいて、初めて、自分の存在は価値ある存在だと認められるわけです。

 イエスさまにとって、その語る言葉に耳を傾けてくれる、このマリアのあり方こそが、実は最高のもてなしであったのではないでしょうか。もちろん、食事のもてなしやら、いろいろな接待も大切です。しかし、一番のもてなしは、実は、その人の言葉に耳を傾けることではないか。人を愛することの第一歩は、まず、その人の言葉に真摯に耳を傾けることではないかと思うのです。そして、この妹のマリアは、そのもてなしを、まさにしているのです。

 それに対して、お姉さんのマルタは、イエスさまの語る言葉に耳を傾けず、あれもしなくては、これもしなくては、なぜ、妹は何も手伝ってくれないのか、という、自分の言葉で、心を一杯にしていました。

 そして、そのように、自分の心の声ばかり聴いていれば、多くのことで思い悩むだけなのであります。

 仕事がうまくいかない、人間関係がうまくいかないと、そういう、自分の心の声、愚痴で心がいっぱいになっていませんか。

 でもよく考えてみれば、人間、裸で生まれて、最後には、すべてお返しして、この世の中から去っていくのです。仕事だ、人間関係だ、金だ、名誉だと一時的な事柄に一喜一憂し、自分の思いで悩むだけで、人生終わっていいのでしょうか。いつまでも残る価値あるもの、本当に大切なものを求めなくて良いのでしょうか。

1ペテロ1章24節には、「人は皆、草のようで、/その華やかさはすべて、草の花のようだ。草は枯れ、/花は散る。しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。」(1ペテロ1:24)

というみことばがあります。
またイエス・キリストは「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」とも言いました。

決して滅びることのない、神の御言葉を聴く。心低く主のまえに座り、主を見上げ、礼拝し、御言葉を聴く。
これこそ、人間にとって必要なこと。

 昔、アメリカにマックファーソンという、鉱山を発掘する鉱夫がいました。あるとき仕事中にダイナマイトが近くで爆発してしまい。両手両足を失い、目も失明してしまい、そしてただ、胴体だけが残ったのであります。しかし、彼は、その苦しみの中で、イエス様を信じて、そして、どうしても聖書が読みたいと願います。しかし、目が見えず、手もない彼には点字さえ読むことが出来ないのです。そこで、なんと、彼は点字を舌で読む練習を始めるのであります。そしてやがて聖書を読むことが出来るようになります。そうまでして、御言葉を読みたいと願う彼。

 全てを失った彼が御言葉を求める姿を通して、人間にとって本当に必要なものは、究極的には神の御言葉なのだということを、確信いたします。

 いつか時が来れば、私たちは、今もっているものすべてをおいて、この地上を去っていきます。健康も財産も名誉も、永遠ではなく、一時的。まさに、人は皆、草のようで、時が来れば、草は枯れ、花は散ります。

 ゆえに、永遠に変わることなく、滅びることのない神の御言葉に聴く人生を大切にしたいのです。

 マリアのように、キリストを見上げ、御言葉を心に蓄えたい。礼拝を大切にしたい。そして、そこから生まれる愛と喜びゆえに、神と人とに仕えていくものとならせていただきたい。そう願うものであります。