酒田開拓伝道の記念誌

shuichifujii2018-03-31

東北地方連合の「酒田開拓伝道」の記念誌ができました。

母教会の山形キリスト教会の歴代牧師の方々

歴代東北地方連合会長、開拓伝道委員の方々

歴代祷援会会長、関係者の方々

伝道所牧師夫妻の言葉などが綴られ、

資料として沿革や当時の様々な写真が掲載されています。
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安全なところで、なにもしないままに、

口先で伝道について語る、「評論家」の多い中、

非常に状況の厳しい不毛の地に、

実際に出かけて行って、

ただ愚直に福音の種を蒔くことを実践した人々と、

その人々を支え、祈り、共にあろうとした人々の

その宣教の愚かさと尊さ、

主に従う道の喜びと厳しさの

実体験からしか聞くことのできない一言一言が詰まっています。

その短い一言、の意味と価値は、

きっと分かる人だけが、わかることでしょう。

ご希望の方にはお送りします。

日本バプテスト連盟 花小金井キリスト教会の藤井にご連絡ください。

小羊会キャンプ

 27日の火曜日から全国小羊会キャンプの引率で天城山荘に来ています。

教会に集う小学生高学年の子どもたちのキャンプです。

普段それぞれの教会には、日曜日に数人の小学生だけが集うのみだとしても、

全国からつどう、教会の子どもたちとの出会いの体験は、

子どもたちの心に、とても大きな影響を与えることでしょう。

教会が協力することの具体的な力を、感じさせてくれるキャンプです。

「実は、本当の休息が取れていないのではないですか?」
http://xn--w8jzd3c601rm66a.com/archives/737

自分は、本当にやりたい仕事をやっているのかが、どうしたらわかるのでしょう?
http://xn--w8jzd3c601rm66a.com/archives/722

あなたは変化がお嫌いですか?

あなたは「変化」に対して、

否定的ですか

肯定的ですか。


否定的な人は、変化を自分の生活を脅かすものと捉えますね。

変化によって失われるディメリットだけを見つめるので、

これまで通りであるべきだと考えます。

変化がもたらすメリットには、あまり関心がありません。

キーワードは「安心」「安定」です。



現在に耐えがたい不満がないのなら、

昨日と同じ今日を繰り返したい。

それが強い動機、そして目的となります。



なので、無理に変化をもたらす人は、

自分の安寧秩序を壊す、悪を行う存在に見えます。



さて、現代のように変化の激しい現代において、

今までの安寧秩序を求める人の心理状態は、

だんだん暗くなっていく可能性が高いのです。



なぜなら変化をデメリットと受け止めるので、

この社会の変化を、どんどん悪くなっていくように、受け止めるからです。



さらに、変化を意識的にも、無意識的にも遠ざけるので、

さらに変化に適応できなくなっていきます。



それでも変化の波は否応なしに押し寄せてきますから、

結果的に、世の中から徐々に取り残されていくことになります。



そして「昔はよかった」「この先どうなってしまうのか」

という暗い考えを、日々繰り返す人生を歩むことになります。



つまり、皮肉なことですが、

だれよりも安心・安定を大切にしていたからこそ、その安心・安定から遠ざかってしまうのです。





さて、後者は基本的に変化を「前進」「機会」であると捉えます。


その人は、変化によって得られるものにフォーカスします。


ですから、変化を積極的に受け入れ、変化をメリットに転換し、これからの生活に活かしていくか、

変化していく世界で、どのように生きていくか、

楽しむかということを考えます。



そういう人にとって、

今は常に不完全で、

より良きものに向かって、成長していくべきであり、

昨日と同じ今日いうことは、「停滞」と映ります。



ですから、変化を阻もうとする人たちのことを、

改革を阻む保守勢力とう、悪と捉えます。




ただ、この人達の明日は、昨日よりだんだん明るくなります。


なぜなら、変化のメリットにフォーカスするので、

変化する社会を肯定的にとらえることができるからです。



ゆえに変化に対して積極的になり、

変化していく生活と、うまく付き合っていこうとするので、

そのための知識やスキルも、自然に身についていきます。




そして変化は、人の成長をうながします。

小さなことでも、常に新しいチャレンジや変化に触れていく人と、

365日代わり映えのしない生活を送りつづける人とでは、

数年後には、大きな差が生まれることでしょう。



その結果

変化を遠ざけて、

毎日同じルーティンワークをしてきた人に比べ、



時代に適応する能力、スキルは圧倒的に高まり、

結果的に、安定、安心も手に入れることになるのです。



変化というものを否定的に見る癖があるのか、

肯定的に見る癖があるのか。



それによって、やがて人生は違ったものになっていくでしょう。



どちらの道も、極端に行き過ぎてはよくなく、

バランスは大切です。



ただ、この世界を作られた創造主は、

常に新しい創造をなさるお方であり、



神に似たものとして作られた人間もまた、

新しい創造の力、クリエイティビティーを備えている命なのですから、



変化に怯えるのではなく、

変化を楽しむものでありたいと思うのです。



神さまが下さった、

一度きりの人生の時間なのですから。

「神に愛された人」

故藤澤一清氏 告別式 メッセージ
ヨハネによる福音書3章16節

「神はその独り子をお与えになったほどに世を愛された
独り子を信じる者が一人も滅びることなく、永遠の命を得るためである。」


3月4日の午後10時7分。
藤澤一清さんのご自宅で、一清さんを囲んで「いつくしみ深き」の賛美を、鈴子さん、教会員の中根さん、そしてわたしの三人で歌っていたところ、ふと気がつくと、今までゆっくりと息をしておられたはずの、一清さんの呼吸が、本当に、いつのまにか、とまっておられました。

本当に静かに、そして安らかに、藤澤一清さんは、主イエスのもとへと、旅立たれていったのです。

教会を愛し、日曜日の礼拝を、なによりも楽しみにしておられた藤澤一清さんらしく、

「主の日」の夜に、賛美と祈りにつつまれての、旅立ちでした。


しかし、今年の1月の半ばまで、藤澤一清さんは、この花小金井教会までこられて、共に礼拝を捧げていたことを思うと、

ご遺族を始め、花小金井教会で、共に礼拝を捧げてきた友、また、藤澤さんと関わりのあるすべての方々にとって、急なお別れと感じ、心痛まれていることと、思います。

今、ここに集められている一人一人が、それぞれに、藤澤一清さんとの、大切な時間、交わりを、それぞれに、神様からいただいてきました。

時間の長さ、短さを越えて、ここにお集まりのすべての方が、

藤澤さんと、共に語り、共に喜び、共に悲しみ、共に分かち合う時を、主からいただいてきました。

ですから、今日、わたしたちは、この神さまがくださった、藤澤一清さんとの出会いと交わりの、すべてに心からの感謝を捧げたいのです。

プログラムに記載されている、故人略歴をご覧いただければ、藤澤一清さんが歩まれた82年間の人生の歩みの中心には、いつも「教会」があったことが、お分かりいただけると思います。

藤澤さんは、牧師の子として「教会」で育ち、そして、ご自身も、やがて牧師となられ、

「東熊本」「岐阜」「川越」そして、この「花小金井キリスト教会」の牧師をつとめられ、2007年に牧師を引退したあとも、花小金井キリスト教会の信徒として、常に「教会」とともに、藤澤一清さんは歩んでこられました。

1991年から2004年までは、花小金井キリスト教会の牧師とともに、日本バプテスト連盟の「宣教部主事」「教会音楽担当」という立場で、「新生讃美歌」の編集責任を担われ、

10年前に、花小金井教会の牧師を引退してからは、東京バプテスト神学校で教えられたり、連盟の「憲法アクション」の責任も、藤澤さんは担っておられました。

そのような、幅広いお働きに関しては、弔辞のなかで、お話がうかがえることと思います。

ですから、わたしは、藤澤一清さんが、その人生の最後の時を、花小金井教会員として過ごし、

ご家族を愛し、教会を愛し、地域を愛した、その藤澤さんのことを、

神は、主イエスを与えるほどに、愛しておられた・・

このひとつのことだけを、お伝えする。これが、わたくしが、ここに立たされている勤めです。

2月19日(月)。まだ藤澤一清さんがお話ができる状態のとき、鈴子さんとともに、告別式の準備をいたしました。

これは、指示ではなくて、お願いだから、そのつもりできいてくださいと、いわれて、

まず、元牧師ということに関係なく、一個人の葬儀として、行ってほしいということ。
そして、わたしの牧師は、藤井牧師だから、藤井に説教をしてほしいということ。
そして、自分は本当に教会の皆さんの忍耐によって、牧師として立ちつづけられたことを、心から感謝していますということ。

そしてメッセージでは、ヨハネ福音書の3章16節のみ言葉から、語っていただけたら、嬉しいということを、伺いました。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。
独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」

このヨハネ3章16節のみ言葉。

あまりに有名で、よく知られているがゆえに、ともすると、慣れてしまい、聞き流してしまいやすい、み言葉であるかもしれません。

しかし、藤澤さんはそのとき、神学者のバルトの話をなさり、彼もその壮大な神学において、いいたかったことは、

神様はわたしを愛している。「主我を愛す」だったんだよ。

そして、わたしもそうなんだと、いわれました。

わたしは神に愛されている。本当に、愛されている。

このひとつのことを、82年の人生の最後に、藤澤一清さんは、みなさんに伝えたい。心から「証」したい。証言したいと、このヨハネの3章16節のみ言葉を、わたしに託されたのです。

 去年の9月25日、藤澤一清さんは、大腸に癌が見つかり入院、そして手術となりましたとき、担当の主治医の先生に、「わたしの命はどれくらいあるのですか」と聞きました。

その時はあと8ヶ月と言われました。

その宣告によって、残された命の時間を、本当に大切に生きたいと、強く願われた藤澤さん。
私と何度かやりとりをさせていただき、実は3回の予定で、藤澤さんの話を聞く会を予定したのですが、

実際には、11月29日の夜、1回しか実現できませんでしたが、

その時は、「イエスと私」というテーマで二時間ほど、語ってくださいました。

そのなかに、こういう言葉がありました。

10年前、牧師をやめたとき、わたしの祈りは変わったのですと。

それまでは教会のことをまず祈っていました。しかし牧師をやめてからは、家族のことをまず祈るように、自然になったのですと、いわれました。

さらに、今回病気になって、また祈りが変わりました。

「神様、今日も命を与えてくださってありがとう」という祈りに変わったのですと、いわれました。

はじめて、自分のことを祈りました。自分の命を感謝したと、そういわれました。自然に、そうなりましたと、といわれました。

何十年も、教会の牧師として生きてこられた藤澤さん。

キリスト教の様々な概念、神学があっても、今、病気になってあらためて、私にとって一番大切なことは、何なのか、ということに、真剣に向き合われたのです。

そして、私のなかで、今まで、いろいろな服を着てきたけれども、病気になって、自分のなかで着ていた服を脱がされたとき、その深い、深いところにあったのは、なんなのかと、

そのことを、考えていたとき、思ったのです。

「私は教会に生まれ、教会で育っち、父が牧師の家庭に育った、

母が歌っていた子守歌は、いつも「主我を愛す」であったことを。

このわたしを、イエスさまが愛してくださっているという、この短く、しかし意味のある言葉が、

今、自分の服をみんな脱ぎ捨ててみたら、それしかなかった。自分の中には、イエスさましかない。

もう、理屈も説明もいらない。わたしには、イエスさましかいないんですと、その夜、語られた言葉を、そこにいた人々は、きっと忘れることはないでしょう。

また、手術を受ける直前、麻酔の注射をうたれながら、出て来た言葉は、「イエスさま、一緒にいてね」という言葉でしたとも、証してくださいました。

ヨハネ3章16節
「神は その独り子をお与えになったほどに 世を愛された」

この世とは、わたしのこと。

この短いみ言葉のなかに込められている、深い、深い意味を、

藤澤一清さんは、82年のご自分の人生の、総括として、

このみ言葉が、わたしのすべてですと、わたしのなかには、この神の愛だけ。主イエスしかいないのですと、証なさった、このことを、

今日、ここにお集まりの皆さんに、お伝えさえできたなら、

そして、わたしたちもまた、それぞれに、神に愛されていることに、

もう一度立ち帰り、神に感謝を捧げることさえ出来たなら、わたしに託された責任は果たせたと思います。

最後に、かつてこの花小金井キリスト教会は、牧師が辞任し、教会が割れてしまうという、深い深い傷を負った時期があったとき、

もはや、神に愛されているという、み言葉さえ、空しく響いてしまうほどの、深い心の痛みに、教会が呻いていた、その時に、

花小金井教会の牧師として立ってくださって、パートナーの鈴子さんとともに、

痛み悲しむ、教会員の一人一人を慰め、愛し、祈り、支えてくださって、

この花小金井教会が、もう一度、この「ヨハネ3章16節」のみ言葉を信じる群れとして、

神に愛されている群れであることを、信じて、立ち上がっていった、そのときに、

牧師として、み言葉を語りつづけてくださった、その深い愛と慰めの、業を、

わたしたち花小金井キリスト教会は、決して忘れることはないでしょう。

家族を、教会を、どのような人をも大切に愛された、

藤澤一清さんの、その心の深い土台に、

ヨハネ3章16節のみ言葉がいつもありました。

そして、このみ言葉が生きて働き、

その人生のすべてを貫いて、永遠の命に至る、愛の実りをもたらしてくださった

主なる神に、心からの賛美と感謝を捧げます。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。
独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」


このあと歌う、新生讃美歌363番「キリスト教会の主よ」は、藤澤一清さんが、花小金井教会の一人一人を思いつつ、訳詞をなさった曲だと、ご本人から聞いています。

教会を愛し、教会の主は、教会を愛しておられる、キリストご自身であるということに、

常にこだわっておられた藤澤さん。

一昨年の花小金井キリスト教会のクリスマス礼拝の日。その日はバプテスマ式が予定されていました。

ところが、牧師のわたしはインフルエンザにかかってしまい、礼拝に出られなくなったのです。

メッセージは代読していただくことにしましたが、バプテスマ式は、そういうわけにはいきません。だれかに、代わりにやっていただかなければならない、という状況に立ち至り、

藤澤一清さんに無理を言って、バプテスマ式の執行をお願いしたのでした。

急なお願いにも関わらず、淡々と引き受けて下さった藤澤さんは、

そのバプテスマ式において、こういう言葉で、バプテスマを授けられたのです。

「父と、子と、聖霊の御名によって、教会があなたにバプテスマを授けます」と

牧師だからでも、元牧師だからでもないのだと。

人間が人間を救うことなどできない。

そうではなく教会が、あなたにバプテスマを授けるのですと、そう宣言して、藤澤さんはバプテスマを授けられました。

あなたを愛しておられるお方は、教会の主なのだから。

この徹底して、教会にこだわり、教会を愛し、教会を問い、教会に仕えて生きた、藤澤さんの心のそこには、ヨハネ3章16節のみ言葉が、いつも響いていた。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。
独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」

今日、わたしたちは、このヨハネ3章16節が告げている、

独り子を信じる者は、一人も滅びることなく、永遠の命を得るという約束を信じ、

このただ、一つのことを、まっすぐに信じ、信頼して、

藤澤一清さんを、教会の主、イエスキリストに委ねます。

そして共に、わたしたちを愛しておられる、神を、崇めたいのです。